依頼書からは始まらない
内製DXの仕事は、要件定義書や依頼書から始まるイメージがあるかもしれない。しかし数十人規模の中小製造業で実際に起きていることは、もっと雑然としている。
作業者が「これ、毎回手で集計するの面倒なんですよね」と言う。管理者が「この数字、一覧で見られないかな」と聞いてくる。きっかけは、廊下ですれ違ったときの一言だったり、昼休みの雑談だったりする。
内製DXの仕事は、この 相談 から始まる。そして相談を受けた瞬間に、頭の中でいくつかのことが同時に動き始める。
データがあるかないかを、一瞬で判断する
「この数字を見たい」という要望を聞いたとき、最初にやっていることは、その数字を作るためのデータが既にあるかどうかの判断になる。
あるなら話は早い。ないなら、誰が、どこで、どうやってそのデータを入力するのかを想像する。入力する人の手間がどれだけ増えるか。マスタデータは揃っているか。揃っていないなら、マスタを整備するところから始めなければいけないのか。
このシミュレーションは、理屈で組み立てているわけではない。どのファイルがどこにあるか、どの作業を誰がやっているか、今のデータがどういう形で保存されているか——そういうことが頭に入っているから、要望を聞いた瞬間に実現可能性が見える。
以前の記事で、AIに代替されない能力として「膨大なコンテキスト」と書いた。このシミュレーションが、まさにその具体的な使い方になる。ドキュメントには書かれていない、現場の構造が頭の中に入っていないと、この判断はできない。
→ 中小製造業の内製DX ── AIに代替されない能力は現場でしか身につかない
このシミュレーションは、現場での経験が長くなるほど精度が上がる。いけそうだと感じたものは実際にいける。ダメそうだと感じたものは、ほぼダメになる。
「いけそう」の閾値
ここでいう「いけそう」は、技術的に実装できるかどうかではない。
「いけそう」の閾値は、無理なく自然に使い続けられるかどうか にある。使う人にとって無理がない範囲に収まっているかどうか。この見極めが、相談を受けた時点での最も重要な判断になる。
画面がすべて
いけそうだと判断したら、小さく作ってみる。ここで重要なのは、内部の設計でもデータ構造でもない。 画面 になる。
使う人にとって、システムの中身は見えない。見えるのは画面だけで、判断するのは操作の流れだけになる。だから最初に見せるべきは、動くプロトタイプの画面になる。
以前の記事で、現場へのデータ入力は「いつ・どこで」を設計すると書いた。画面のプロトタイプを見せるのは、まさにこの設計を現場と一緒に検証する作業になる。
→ 中小製造業の現場にタブレットを配っても定着しない ── 入力は「いつ・どこで」を設計する
細かい話に聞こえるかもしれないが、事務職ならタブキーでフォーカスが移動するかどうかを気にする人がいる。現場なら「自分で数字を打つのは無理だから選択式にしてほしい」という声が出る。こういう操作の感覚は、仕様書には書けない。画面を見せて、触ってもらって、初めて出てくる。
画面を見ながら「これなら大丈夫そう」という反応が得られたら、ほぼ問題ない。逆に「こんな操作を毎回やるのは無理」と言われたら、そこで設計を見直すか、場合によっては中止の判断をする。
以前の記事で「話す・聞く・見せる・また話す」と書いた。画面を見せるのは、この「見せる」の部分になる。
使われなくなることは、普通にある
ここまでのプロセスを経ても、使われなくなることはある。
部門長が意気込んで始めたプロジェクトでも、「やっぱりその数字、今は要らないかもしれない」と言われることがある。機器の追加購入が必要だとわかった途端に、中止になることもある。理由は拍子抜けするほど単純なことが多い。
これに対して一喜一憂していたら、この仕事は続けられない。
以前の記事で、実績データ収集は「何と比較するか」から逆算すると書いた。この考え方で設計しても、そもそも「比較する」という行為自体を管理者がやめてしまえば、仕組みごと不要になる。
→ 中小製造業の実績データ収集は「何と比較するか」から逆算する
使われるものは自然に使われる。使われないものは自然に使われなくなる。以前の記事でワークフローやタブレットの話を書いたが、どれだけ設計を工夫しても、最終的には現場が「続けるかどうか」を決める。コントロールできる部分はあるが、限界もある。
大事なのは、プロフェッショナルでいること と、自分の作品だと思わないこと を両立させることだと思う。依頼された仕事には全力で取り組む。しかし、成果物に対して個人的な執着を持たない。これを作ったのは自分だ、使ってほしい、という感情は、判断を鈍らせる。
中止の判断が出たら、それは単に「今はこの仕組みが要らなかった」という情報が得られただけのことになる。その経験は次の相談のシミュレーション精度を上げる材料になる。
相談の精度を上げるもの
この記事で書いたことは、特別な方法論ではない。相談を受ける、シミュレーションする、小さく作る、見せる、結果に執着しない。内製DXの日常は、この繰り返しになる。
ただし、この繰り返しの精度を決めているのは、ツールでも手法でもなく、現場で蓄積したドメイン知識になる。以前の記事で「身体性→コンテキスト蓄積→構造化」という順番があると書いた。相談を受けた瞬間のシミュレーションは、この3つが噛み合って初めて機能する。
→ 中小製造業の内製DX ── AIに代替されない能力は現場でしか身につかない
逆に言えば、ドメイン知識の蓄積がない状態でこのプロセスを真似しても、シミュレーションの精度が低いので空振りが増える。「いけそう」と思って作ったが使われなかった、が頻発する。
だからこそ、以前の記事で繰り返し書いてきたように、内製DXエンジニアは現場に出る時間を削ってはいけない。相談の精度を上げるのは、開発スキルではなく、現場を知っている時間の蓄積になる。
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