人間の中にある二つの力
以前の記事で「AIはインフラになる」と書いた。具体的な未来予測はどうでもいい、構えを取っておけばいい、と。
→ AIの具体的な未来予測はどうでもいい ── それでも中小製造業が今から触るべき理由
ただ最近、もう少し根本的なことを考えるようになった。AIが進化した先に、人間には何が残るのか。中小製造業の話をいったん離れて、もっと大きな枠で考えてみたい。
人間には、大きく分けて二つの力があると思っている。
一つは 「計算する力」。データを分析する、最適解を出す、効率よく処理する。もう一つは 「不確実に飛び込む力」。まだ結果がわからないことに対して、「それでもやる」と決める力。希望と呼んでもいいし、意志と呼んでもいい。
この二つは別々のものに見えるが、人間の中では一体になって動いてきた。データを見て「いけそうだ」と計算し、でも最終的には確証のないまま「やろう」と決める。計算と飛び込みが交互に回ることで、人間はここまで来た。
計算する力だけが外部化された
ここ数百年で起きたことを振り返ると、面白い非対称がある。
そろばん、計算機、コンピュータ、そしてAI。人間の「計算する力」は道具として外部化され、どんどん磨かれ、ついに人間を超えた。コードレビューも、レポート作成も、最適な判断も、文脈さえあればAIのほうが速くて正確に出せる時代になりつつある。
一方で、「不確実に飛び込む力」は一度も外部化されていない。数値化できないし、最適化の対象にもならない。だから道具にできなかった。数百年間、ずっと人間の中に残ったままになっている。
つまりAIは、人間の半分——計算する側——だけが独立して進化したものだと言える。AIが人間を超えたように見えるが、超えたのは半分だけだ。
超えられた側はもう価値にならない
ここに逆転がある。
計算する力が人間を超えた瞬間、その力は人間の価値ではなくなる。正確なデータ分析、効率的な処理、ミスのないレポート作成。どれもAIのほうがうまくやれるなら、人間がそれをやる理由は薄れていく。
残るのは、AIが持てない側。不確実に飛び込む力のほうが、人間の本質的な価値として浮かび上がってくる。
ここで言う「飛び込む力」は、無謀に突っ込むことではない。 「確率では計算できないものに向かう力」 と言い換えたほうが正確かもしれない。
AIは過去のデータから確率的に未来を予測できる。精度も上がり続ける。しかし「こうなってほしい」という希望は持てない。「まだ誰も成功していないが、やるべきだ」という意志は生成できない。データに基づく正しい回答は出せても、 「前例がないからこそやる」 という判断は出てこない。
AIに「誰もやったことがないことをやりたい」と相談したら、たぶんこう返ってくる。「成功事例がありません。リスクが高いです。代替案を検討しましょう」。データに基づく正しい助言だ。でもそれに従っていたら、世の中の大半のイノベーションは生まれていなかった。
社会は「計算する人間」を前提に作られている
問題は、ほとんどの仕事が「計算する力」の側で成り立っていることだ。正確に処理する、効率よく回す、ミスなく仕上げる。会社で評価される能力の大半はそちら側にある。
計算する力が人間の価値でなくなったとき、多くの人は自分の足場を失うことになる。
中小製造業に引きつけると、この話はもっと具体的に見える。以前の記事で、バックオフィスの定型業務がAIの影響を最も受けると書いた。
伝票入力、データ転記、請求書処理。こうした業務は「計算する力」で回っている仕事そのものだ。判断はほぼ不要で、ルールに従って正確に処理することが求められる。AIどころか、今の技術でもかなり自動化できる領域にある。
飛び込む力だけでは足りない
では「計算する力」はもう不要かというと、そう単純でもない。
不確実に飛び込むためには、 飛び込む方向を見定める目 が必要になる。基盤がなければ「どこが未知なのか」すらわからない。「AIがあるから勉強しなくていい」は最も危険な結論だと思う。
製造現場でベテランが機械の音を聞いて「今日は調子が悪い」とわかるのは、何千時間もその音を聞いてきたからだ。プログラミングでも、何年もコードを書いてきた人がバグを見たときの「なんかここ気持ち悪い」という嗅覚は、説明しろと言われてもできない。一つの分野に深く打ち込んで初めて養われる感覚がある。
以前の記事で「身体性、コンテキスト、構造化能力」という3つの能力を挙げた。
→ 中小製造業の内製DX ── AIに代替されない能力は現場でしか身につかない
あの記事で書いた「身体性」や「コンテキストの蓄積」は、今回の話で言えば 基礎を積み上げた先にしか見えない直感 のことだ。言語化は難しいが、一つの分野に何年も浸かった人間だけが持てる感覚。AIにセンサーデータを分析させれば異常検知はできる。でも「この異常は放っていい、この異常はまずい」の判断は、現場を知っている人間の直感でしか下せない。
飛び込む力と直感は、同じ根から育つ
ここまで考えてきて気づいたのは、「不確実に飛び込む力」と「深い直感」は別々の能力ではないということだ。
一つの分野に何年も打ち込むこと自体が、すでに「不確実に飛び込む行為」になっている。その分野を極めた先に何があるかは、やる前にはわからない。報われるかもわからない。それでも続ける。これは合理的な計算からは出てこない判断で、まさに「確率で計算できないものに向かう力」そのものだ。
逆に言えば、何にも深く打ち込まずに「飛び込む力」だけ鍛えても、方向が定まらない。飛び込む先が見えないまま飛んでも、それはただの無謀になる。
飛び込む力と直感は、一つのことを続けた人間の中に同時に育つ。
AIは人間を原点に戻す
狩りに出るのも、海を渡るのも、確率なんて計算できなかった。でも「あっちに何かあるはずだ」と思って動いた。根拠はなかった。でも行った。計算という「後から身につけた能力」が道具に移ったことで、人間は「最初から持っていたもの」に戻る。技術の到達点が、人間の出発点に帰ってくる。
ただし、その原点に戻るためにも、深い基礎の蓄積は必要になる。以前の記事で「泥臭さが最後に残る」と書いた。現場に足を運び、人と話し、業務の混沌を自分の中に取り込む蓄積。その先にある直感が「不確実に飛び込む方向」を照らす光になる。
世の中は合理的に全てが決まるわけではないし、当面その世界にはたどり着かない。しかし方向としてはそちらに進む。技術は後退しない。目の前の仕事に深く潜ること——それが、今できる準備だと思う。
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